救いはチャイティー
インドが嫌いだ。
海外にいると「インド人ってさぁ~…」「ほんとアイツらって…」などといった、憎めないバカ彼女を語る口調をよく耳にするけれど、僕の場合はガチだ。
もうクラクションの音に耐えられない。
本気だ。
細い路地で、トゥクトゥクに後ろから鳴らされるたびに、「どこをどう握って力を加えると、綺麗に張り倒せるか」を考える。
または、アメリカンタイプのバイクが、太っとい銀色マフラーを馬鹿みたいに轟かせるたびに、「そこにチャイティーを入れるとどんな音がするか」を考える。
この間なんてあまりに露骨すぎて日本語で罵倒してしまった。
歩道と車道の区別がないため、後ろからクラクションを鳴らされるのは日常茶飯事で、その日も汚ったない道を左右しながら歩いていた。
すると、一台のバイクが当たり前のように僕に対しクラクションを鳴らしてくる。
「プーーーー!!」
「おい、どけ」というニュアンスで鳴らされるそれは、東南アジアの「通るから気を付けてね」のものと質が違う。
僕はもう本当に疲れているのだけれど、「郷に入ったら郷に従え」スピリットをかろうじて思い出し、道を譲る。
そのバイクは、すいーんと僕の前に割り込んできて、すぐに停車。
呆れた。
お前はこの2,3メートルも待つことが出来ずに、僕にどけと言ってきたのか。
通行の妨げでしかなくなったそいつの後ろに、待ち合わせていたらしい彼女のような輩がまたがる。
「なるほどね、彼女に一刻もはやく会いたかったのね」と理解を示す余裕はもうない。
しかし、かといってこちらは爆音を持っていないので、自己主張の術もない。
しぶしぶ、沈黙しながらそいつらを再度追い抜き、歩を再開する。
「プーーーーーーー!!!!!!」
…。振り向くと、今追い抜いたそいつが、涼しい顔してクラクションを鳴らしてきた。
心が狭いと言われてもかまわない。インドをまだまだ知らないねと言われても、旅のだいご味を知らないねと言われてもかまわない。
カップルまとめてぶち殺してやろうと思った。
それで振り絞って声を張り上げる。
「うるせぇ!!」
我ながらダサいかなとは思ったけれど、久々に頭がくらっとするくらい大声を出した。
立ちくらみをおこし、体幹が傾きかけ、牛のうんこを踏みそうになる。
そして避けると後続のトゥクトゥクにクラクションを鳴らされる。
「にゃああああああん!!!!!」
奇声をあげる。
狂犬病を患っているわけではないが、それくらい僕の精神は限界にたっしている。
なんというか、ここはインドだから通用していることが多々あるような気がするが、こうはならないようにしないとな、と思わせられる。
もちろんいいところはあるのだろうけれど(今のとこ思い浮かばない)、ありがとうは言うようにしよう、道は譲るようにしよう、唾は吐かないようにしよう、立ッションしないようにしよう…等、反面教師的なところが強い。
あんまインドで学んじゃいけないと僕は思う。
むしゃくしゃしていたので帰り道に、古本屋でエロ小説「母娘」を買う。
精神の安定を取り戻すのには官能が必要だ。
今宿に引きこもってそれを読んでいるところ。
明日バンコク戻ります。
老人と砂漠
バラナシを抜けると、プリーで知り合った友人を追いかけて、ジャイサルメールへと向かった。
andymoriの曲に、
ジャイサルメールには
ドロップキャンディの雨が降る
歴史は砂の中 僕らは風の中
というロマンチックな歌詞があるけれど、近隣に砂漠地帯が広がり、宿泊ツアーも行われる観光地。
立地的には、ほとんどインドとパキスタンの国境であり、若干危険地域ではあるという。
その事実を裏付けるように、電車の乗り換え時に僕は壮絶なシーンを目撃した。
暑さと便所臭のために、プラットフォームに待機していた僕の前を、5人組の男たちが通り過ぎていく。
突然その集団の中から、初老の痩せこけた男性が、飛び出てきた。何やらもぞもぞと呟いている。
するとその集団は束になって老人を取り押さえ、怒声を響かせる。
辺りを凍りつかせたまま、彼らは電車の中へと消えていった。
おい、なんだよ、物騒だな…。
ただの万引き犯でありますように…。
ただの万引き犯でありますように…。
ただの万引き犯でありますように…。
5人組のGメンでありますように…。
5人組のGメンでありますように…。
5人組のGメンでありますように…。
さて、そろそろ出発の時間だ。
自分のシート番号を確認し、キョロキョロと席を探す。
寝台列車のため、すべての席がベッドになっているけれど、寝心地はいいものとは言えない。
運にもよるけれど、この間のように便所の近くは嫌だぞ。
期待を込めながら、やっとのことで自分のシートを発見した。が…。
先ほどの老人が僕のシートの下で、手足を縛られているぅぅぅぅ…!!!!!
これはかなりヤバいんじゃないか。
周囲には例の集団が構えていて、威圧的な視線を送っている。
僕は緊張すると、急激に足に乳酸が溜まるという体質を持っているのだけれど、案の定上段に上がる際に足を攣っていまい、声を発しそうになる。
(あいたたたたたたたた…!)
舌を噛み殺し、激痛が去るのを待つ。
注目されてはいけない、絶対に注目されてはいけないのだ…。
そして、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…と、
ひたすら心の中で謝りながら横になるけれど、一睡もできずに朝を迎える。
彼の行く末を案じながら、下車するシーンを観察していると、頭から袋をかぶせられ、ジープに乗り込んで砂の町へと消えていった。
彼がどこへ連れていかれたかはわからない。
けれども、できるだけ早くこの町を出ていこうとこの時思った。
グッドモーニング 僕らはこの空の下
グッドモーニング 目を閉じ 耳をふさぎ
揺れる
袋を頭から被せられ、視界を失った老人と、僕らは同じこの空の下にいる。
けれどもみんながみんな同じ朝が来るとは限らない。
観光という砂塵に隠された現実を目の当たりにした、数少ない瞬間だった。
僕のB'z
完全にノープランで来てしまったため、誰かを追いかけるという旅が続いているここインド。
ダージリンを抜けた僕は、約23時間かけて、北中部のバラナシへと赴いた。
バラナシは、日本のテレビで多分一番放送されているインドの象徴、ガンジス河に接している町。
沐浴している人々がたくさんいる、そう、あのシーンの町。
そこで泳ぐと3日後に、熱か下痢になるといわれているけれど、吐き気も追加してほしい。
コルカタ、プリー、ダージリンとはまた色彩の違う町で、面白さでいうと群を抜いていると思うけれど、どちらかというとこの町が嫌いだ。
牛と野糞が多すぎる。
バラナシの町
そして他の町とは打って変わって、巧みな日本語を操るインド人が無数にいる。
平均して30歩に一回は「コニチワー」「チョットマッテオニーサン」「ヒゲカッコイイネ」「ヒゲドーシタノ」「ナニソノヒゲ」と、何かしらの日本語で声をかけてくるものだから、目的も忘れるほどに思考をシャットダウンされ、前に進めない。
いや、実は目的など特に無いからちょうどいいのだけれど。
この間もその姿勢で、河沿いでぼーっとインド人を観察していたら、いつの間にか少年たちに囲まれていた。
その中でひときわ英語が達者な15歳の少年がおり、意気投合。
そいつにひょこひょことレストランに連れて行ってもらった。
「お前、いいやつだな。なんか食うか」
「いや、いらない。さっき食べたからお腹いっぱい」
「じゃあなんか飲むか。ラッシーあるぞ」
「ありがとう、でも本当にお腹いっぱいなんだ。それよりもさぁ、ポスカ。ポスカ。ポスカ…」
ポスカってなんだ。
インド料理に疎い僕は、カレーと、チョウメン(麺を野菜や卵と炒めたもの。炒飯みたいな味)のローテーションでやりくりしてて、ポスカは食ったことがない。
メニューを睨みながら、ポスカ、ポスカ、ポスカ…と探していると、少年が懐から何かを取り出しテーブルに叩きつけた。
「……、ハウマッチ……。」
「800ルピー(1200円)。」
高っけぇぇえええええええ。
12枚セットだから、日本だったら1枚120円の計算で妥当といきたいところだけど、200ルピーで一泊はできるため、これは法外な値段だ。
「実は学校に授業料を払わないといけないんだ…明日までに500ルピー…」
苦し紛れの言いわけなのか。
「ばか、俺たちは友達だって言ったじゃないか。だからそういうお金の関係は無しにし…」
「GET LOST」
生まれてこのかた15歳のガキに「消え失せろ」なんて言われたことなかったのだけれど、インドならそれが有り得るらしい。
翌日、その少年は河のほとりで同じように、旅行者に必死に語り掛けていた。
その話を宿でしたところ、”そいつと友達だ”という女性がいたのだけれど、その人こそバンコクで知り合ったCさん。
彼女は元美容師さんで、路上で「髪切ります」というパフォーマンスをやっている。
バンコクのカオサンロードでは、連日彼女の周りに人だかりができて、挙句の果てにクラブハウスの壇上でやるかやらないかというところまでいっていた。
愛知県出身らしいのだけど、ノリが完全に大阪のおばちゃんで、誰とでも友達になる強烈な31歳。
いっしょにバラナシの町を歩いたけれど、15人くらいのインド人から名前を呼ばれていた。
「おいC、チャイ飲んでいけ」
「C、髪の毛かっこいいだろ」
「やいC,10ルピーくれ」
人を引きつける力が半端ないけれど、「あなたかわいい」と言われたことはないらしい。
彼女とデートできる、通称「Cツアー」に参加してみた。(参加費無料)
まず火葬場に行く。
ガンジス河のほとりでは、聖なる河に帰ることを目的として、毎日大量の遺体が運ばれてくる。
それを薪で約3時間焼くのだけれど、その焼却シーンが目の前で繰り広げられるという衝撃のインド価値観。
観光客から薪代を徴収するために開放しているのかな。
お腹に赤ちゃんがいる人、子供、罪人…なんだったか忘れたけど、この世を全う出来なかった人々は、焼かれることなく、ガンジス河に流される。
ガンジス河には死体も流れている、という理由はここにあるらしい。
次はスィンディヤーガートという、傾いた寺院が沈むほとりに。
その前の広場でインド人たちに囲まれ、ツアーどころではなくなる。
平日の真昼間から、なんでこんなに暇そうな人がいるんだ、と疑問に思うけれど、自分もその一員じゃないかと、ハッと気づく。
その中で宣教師みたいになった僕は、すべての人に暇と退屈を!と説いてみせる。
ガンジス河のほとりにて
日も傾きかけたところで、散髪開始。
一度目は半ば強引に切られたけれど、二度目は自ら志願。
共通の趣向として「B’zの稲葉さんみたいにしてください、ギリギリchopの時の」とオーダーするも、周りの日本人ギャラリーは、ギリギリchopを知らないというまさかのジェネレーションギャップを思い知らされる。
ギリギリchopは僕にとっても思い入れのある曲で、「HOME」に感動したあのB’zがなんとコナンの主題歌を歌うという、憧れへの距離がグッと縮まるきっかけとなった曲だった。
ちなみに僕の中では、ギリギリchopが前期B’zと後期B’zの分岐点となっていて、ギリギリchop以降も好きだけど、僕の中では売れ専という設定となっている。
部活動の懇親会のカラオケでも、コナンの主題歌「ギリギリchop」を歌えば人気者にのし上がり、調子にのった僕は過去の「ALONE」「OH!GIRL」「恋心(KOI-GOKORO)」と10歳ながらにラブソングを熱唱し、親御さんたちからは爆笑という名のせせら笑い、同級生からは沈黙を買うことになったけれど、歯止めがきかなかった。
今でも忘れないのだけれど、周りの不穏な空気を感じ取り、活気を取り戻そうともう一度「ギリギリchop」を歌い出した時、ほとんどの同級生が、スーっと部屋から退場した。
空気を読めないのは天性であるらしい。
それでも、取り残された僕に「ギリギリchop」はある意味での解釈を与えてくれる。
ギリギリじゃないと僕ダメなんだよ
おねがい寒い目で見つめないでよ
自分のペースでやらせてよ
じゃないとすぐに潰れる
ギリギリ崖の上を行くように
フラフラしたっていいじゃないかよ
それでも前に行くしかないんだから
大丈夫 僕の場合は
歌を止めることなく歌い切ったあの頃の自分に、心からの称賛を与えたいと思う。
そして僕を見事にあの頃の稲葉さんに(顔はそのまま)してくれたCさんに、感謝したい。
またどこかで僕をB'zにしてほしいと思う。
ダージリンです
昨日の記事で、ヒマラヤ・ダージリン鉄道「トイトレイン」についての情報をアップするかもしれないと書いたけれど、アクセス数が僅か「2」しかなかったので、やめる。
あーもうむかついた。これからダージリン行く人は、行って困りまくればいい。紅茶でも飲んで、FBにでもアップするが良い。
…需要…とほほ…。
さて、8月1日午前中、ドラキュラが出そうなホテルで目を覚まし、支度を始める。
まずはATMを探さなければならない。
幸いホテルの隣に設置されており、10000ルピーをおろそうとする。
いつも、おろせればいいな、くらいのテンションで使っているくらいATMの使い方がよくわかっていないのだけれど、今回ばかりは手持ちが30ルピー(50円くらい)しかない。
もしこのド田舎でおろせなければ、すなわちそれは死を意味する。
案の定おろせない。
いくらトライしてもお金をくれないメカニック守銭奴。
挙げ句、隣接されていた銀行に入っていき、現金がほしい旨を伝える。
「あなたのカードはこの辺じゃ使えないわよ。」
女性のボスは言った。
もしかしたらこうしてインドでの日本人行方不明者は途方に暮れて、片田舎でのたれ死んでいるのかもしれない。
どうすればいいのだろう。
「ここから5km先に国際銀行があるから、そこでおろせるはず。あなた、お金持ってるの?」
「30ルピー…。」
それからボスはおもむろに小切手のようなものにサインし、1000ルピーを従業員に握らせ、「彼が連れてってあげるわ。」と、なんと送ってもらえることになった。
これからダージリン行を控える僕としては時間がすべて。
ボスの計らいは、インド童貞の僕にとってはまさに痴女に等しかった。
手取り足取りの流れ作業は、神業のようであった。
この恩は決して忘れないようにしたい。
カーマスートラに一歩近づいたような気がした。
さて、喪失した僕はまさに水を得た魚だった。
ありがたく10000ルピー引き出せた僕が今いる場所こそ、スィリグリーという町だったのだ。
ダージリンの麓で、これだけ栄えていたら、ひょっとするとバスか乗り合いジープがあるのではないか…。
予感は的中し、少し散歩すると「Darjeeling」の表記があるジープがたくさん停まっていた。
ドライバーが呼び込みをしているので、今にも満席になりそうな車を選んで乗り込む。これからは座っているだけ。
約3時間程かけて、ダージリンの街を目指す。
徐々に緑が深さを増していき、しめやかな霖雨とともに視界が狭くなっていく。
北欧には行ったことはないけれど、インドにいながらなんかそっち系の音楽が流れてきそうだ。
道中
雲間を抜けると、そこだけ木々が家になったように、斜面に表出した町が広がっていた。
かつてのイギリス軍は、この景色と対峙して何を思ったのだろう。
僕は、山脈の広大さに畏れを抱きながらも、こんなところに避暑地を作る人間の力強さを感じた。
車道の脇に通っているヒマラヤ鉄道のレールを眺めながら、およそ130年もの間それを守り続けている人間のしぶとさを感じていた。
そういえば、「OIL OIL OIL!」って書くと、サザエさんのエンディングに聞こえるんじゃなかったっけ。
到着間際になってそんなことを考えていたら、耳の後ろで、「シュッポッポ、シュッポッポ、シュッポッポ」と音がしていた。
もしやと思い、振り返ると、世界遺産の蒸気機関車が、颯爽と木々の狭間に消えていった。
しまった。
鉄道の走っている貴重なシーンを逃してしまった。
「シュッポッポ、シュッポッポ、シュッポッポ」の音だけが耳に残っている。
「シュッポッポ、シュッポッポ、シュッポッポ」、ローマ字にしたら「AAA」だね。
北欧ミュージックが、J-POPに変わりました。
約3時間のみちのりをかけて、紅茶の町に到着。
darjeeling
標高2000mだけあって、けっこう冷えていた。
住民も半分はチベット寄りの顔立ちで、ほんとにインドの異国という感じ。
とりあえず宿を見つけ出し、拠点を確保する。
明日はトイトレインに乗ってみようと、駅で切符を買い、この日は終了。
コテージのような宿では、雨季と標高のせいからか、ベッドが冷たく湿っていた。
けれどもこの山間とこの寒さ。
数年前に高校の友達と行った、大分スキー旅行を思い出す。
こんなところに友達と来れたら、どんなに楽しいのだろう。
ただの寂しがりのように聞こえるけれど、ずばりその通りだ。
突然今回インドで出会った日本人たちのことを恋しく思ってしまった。
僕は今、海外にいていろんな人種の人たちと触れ合っている。
日本にいる友達はすごいことだというけれど、日本で一つの民族が一つの場所に存在しているということもずいぶんとすごいことなんじゃないかと思う。
言葉や微妙な表情が通じて、コミュニケーションとれるって、一長一短かもしれないけれど、感情を共有できるだけで嬉しいことだな。
このダージリンの地は、多民族・多言語が混在している。
多少の不自由はあるかもしれない。
けれどもそれを乗り越えて、理解しあおうという雰囲気が、街にあふれていた。
一例として、街の看板は英語での表記でほとんど統一されている。
海外には、いろんな事情のある地域があるということを知り、自分の生まれた環境と、自分を取り巻いてくれている人たちへの郷愁を感じさせてくれるこのダージリンが、僕は好きだなー。
街並み
【インド・ダージリンへの行き方】2016年8月
ダージリンといえば、「午後の貴婦人」、「アフターティー」、「緑の茶畑」など、優雅な連想をするかもしれないけれど、インドにそのダージリンという土地がある。
しかもかなり行きにくいところにある。
ネットでは、「行った」という人はたくさんいるけれど、「どうやって行った」ということを明確に書いている人はほとんどいない。
今日その道のりを体験してみてわかったのだけど、「なんとなく行けました」って感じで到着するのがダージリンだと思う。
一応行く手段を書いておこうと思う。
閲覧回数アップを狙っていく。
【インド・ダージリンへの行き方】(2016年8月現在)
①まずは最寄りの『ニュージャルパイグリ駅』へ
バラナシ(所要時間18時間程)、コルカタ(所要時間8~9時間程)等、どこからでもいいのだけれど、まずはダージリンの最寄り駅、『ニュージャルパイグリ駅』まで行く。
※夜に着いたら交通機関がないので、諦めて周辺の宿で一泊。
(どこも1部屋900ルピーほど)
②乗り合いジープ、もしくはバスを見つける
この『ニュージャルパイグリ駅』の目の前の広場に止まっているバスまたは乗り合いジープを使い、ダージリンの町まで直行。₍車に「Darjeeling」という表記がなされているので、比較的簡単に見つけられると思う。)
もしくは近くのスィリグリーという町から、乗り合いジープで向かう。
ニュージャルパイグリ駅から少し距離のある町だけれど、乗り合いジープがたくさんいて便利だと思う。
※尚、2016年8月現在、ニュージャルパイグリ駅からダージリンまでのトイ・トレインは運休中。見た感じ、今後もしばらく運行は無いような気がする。
【最終時刻】(ニュージャルパイグリ駅から)
・バス:12時が最終
・ジープ:15時くらいでいなくなる
【所要時間】(ダージリンまで)
・バス:4時間くらい
・ジープ:3時間くらい
【値段の目安】
・バス:100ルピー
・ジープ:130ルピー
※この30ルピーをけちると、いつ出発するかわからないバスを待たなければならないという不安に苛まれる。迷うよりは、確実にダージリンへ向かうジープに潔く乗り込むことをおすすめ。
乗り合いジープ内の様子
③ダージリンに到着
標高およそ2200メートルの山地、ダージリンへ到着。
降りる場所はジープによってまちまちだと考えたほうが良い。
僕が降りたところは、トイ・トレインの停留している『ダージリン駅』をちょっと過ぎたところ。列車の停まる『ダージリン駅』を見たときは、たどり着いた感動がある。
④まずは宿探し。
急こう配、尚且つ迷路みたいな路地が多いので、暗くなってからだとしんどいと思うので、はやめに宿を見つけておく。
ーーーーーー
こんな感じ。
ジープで行って正解だったと思う。
とりあえず乗っとけば到着するから、変な不安がない。
バスは一応あるみたいだけど、どうやってあの狭い道を登っていくのか不明。
馬力も違うから、時間もかかるはず。
そして、旅行者なら知りたいのが、「世界遺産トイ・トレイン」の情報。
現在、ニュージャルパイグリ駅からダージリン駅までは運休中だけれど、ダージリン駅からの下り列車で、ひとつ隣のグーム駅までは往復便があります。
ダージリン➡グーム➡ダージリンという感じ。
気が向いたら明日書きます。
眠いので寝ます。
ナマステぇ
バンコクでの日々はすっ飛ばす。
ここの宿においては、パソコンいじったり、本読んだりして部屋にこもるよりも、リビングでダラダラしているほうが何かが起こって楽しいということだけは言える。
結局、どうしてもインドに行きたくなって、もう行く機会も限られてくるということも考えていたら、チケットを購入していた。
21日の早朝、スワンナプーム空港から、インドのコルカタ空港へと飛んだ。
「深夜特急」の沢木耕太郎もコルカタからスタートしており、デリーへと向かうという通路を選択している。
海外旅行者の間でも、一般的なルートではあるらしいのだけど、やはりここはインド、(というよりも僕の気まぐれな性格からか)気の赴くがままにぶらついている。
インド散歩
本がマスクの代わりになるとは、インドに来るまでは気が付かなかった。
7月31日現在、プリーからダージリンに向かう20時間の列車において、運の悪いことにトイレの隣の席が当たってしまった。
いくら列車とはいえ、雨季のじめじめとした空気がどこまでもまとわりつき、時折鼻を刺す臭いがそのぬるい湿気に交じって、眠気をさらいに来る。
皆が寝静まるまで電気を消すということをしないため、直下に照らされていた僕は何かしら光を遮る手立てを考えねばならず、仕方なく読んでいた本を顔に落とすことにした。
するとどうだ。
今まで臭っていた刺激臭が、一瞬にしてシャットダウンされるではないか。
よしきた、これでいこうと決意したのだが、次の瞬間には隙間から、もそぉぉぉっとその臭いが攻めてくる。
ま、まずい!
「殿!敵兵が十二時の方角より侵入しております!」
「何をぉおう、塞げ塞げぇえええ!」
「ああ…!今度は六時の方角から…!」
「何をぉおぅ、塞げ塞ぐのじゃぁあ!」
「殿、インドの幼女が見ております…!」
「何をぉおぅ、」
インクの匂いで癒されたのも束の間、ページを開いて顔に擦り付けていた僕は、はたから見たら本に愛撫している変態に見えたのだろう。
顔から離すと、向かいの席の幼女がこちらを怪訝のまなざしで見ていた。
バンコクに荷物をほとんど置いてきたため、司馬遼太郎の書籍しか手元にあらず、まさかインドの列車内で自らの書籍がマスクとして機能しているとは、かの大先生も予想できなかっただろう。
戦国テンションなのもそのためだ。
けれど、幼女のまなざしで、何が正常か問われている気がした。
インドに来てから、たしかに僕も左手でお尻をふきふきしている。
それで今さら臭いとか、インドの人からしたら、甘えんじゃねぇとなるかもしれない。
郷に入れば郷に従え、じゃないけれど、あまりに感覚の許容範囲が広いインド人に囲まれて、まだまだたじろいでいる自分。
列車から
はやく着かないだろうか。
順番は前後するけれど、出発したプリーはなかなかの田舎町で、のんびりしていいところだった。
インドでは有名な「サンタナ」という日本人宿の一号店がこの町にあり、そこに泊めてもらう。
バンコクで知りあった友人とも再会でき、野郎ばかりだったけれど、それはそれで楽しい滞在になるかもしれないなと思っていた。
しかし一泊目に蚊に咬まれまくって、僕は40度近い熱を出すことになる。
身体もきつかったけれど、何より臭いがきつかった。
かなり看病してもらってこういうのも申し訳ないけれど、かなり年季の入ったベッドに浸み入る僕の汗が魔術のように作用して、太古の記憶を呼び起こす。
今まで何人の放浪者がこのベッドに横たわったのだろうか、蓄積されたオイニーが溶解して、かわいそうな病人を包み込む。
さすがにゲロまでは吐かなかったけれど、4日間、ほとんど自室にこもり、陰謀論のYoutubeを見ていたら治った。
プリー
ここからの文は、ニュージャルパイグリという、ダージリン行の鉄道が出ている町のホテルで書いている。
20時半頃に到着したけれど、やはり見知らぬ土地に夜入るのはまだ怖いな。
住人が全員、睡眠薬強盗に見えてしまう。
この辺り、マイナー所のくせに一泊の値段がやたら高いしなんなんだ。
しかも泊まったホテルの部屋が怖すぎて風呂に入れない。
何の必要があって、赤いランプを浴室に使うのだろう。
鏡を見たら、ぜったいに鮮血に染まる女が立っているはずだ。
あ~いやだなぁ~怖いなぁ~。
明日にそなえて電気消さずに寝ます。
酔い街
カンボジアへ来て、久しぶりの日本人宿にテンションが上がっていたのも束の間、12時出発のミニバンでバンコクへ向かうことに。
早朝、急遽手に入れたミニバンのチケットは13ドル。
片道8時間の旅にしては安いけれど、他の東南アジアと比較すると、全体的に物価は高かったような。
それでも良心的な日本人宿(泊まらなかったけれど遊びに行った)ではビールがジョッキで0.5ドルという安さ。
だからシェムリアップに沈没者(一つの宿に留まり続けること)が多いというのはわかる気がする。
アル中の僕の友人も、ここに長期で滞在していたらしい。
必然的に、宿から送り出される形となり、旅行代理店の手配してくれた車の向こうでみんなの顔が遠ざかっていくときは、少し寂しかった。
バンコクで一番初めに泊まった日本人宿を思い出すけれど、その宿を今目指そうとしている。
そこに行くのは、ただ友達を作りたいというのもあるけれど、最近、国内外問わず、友達の存在が僕の世界を拡張してくれているなと思うからだ。
その人がいるから〇〇に行きたい。〇〇(例えば茨城)なんていつもは意識の外にあるものなのに、その人の存在によって、なんか身近なものに感じられる。
あるいはその人の問題意識を聞いてみる。今まで聞いたこともなかった社会の闇が、自分の見ていた社会の浅さを知らせる。
特に前者のような広げ方ってけっこうアリだと思う。
さらに自分で赴いてみるとなおいいなんじゃないかと思う。その土地のこととか、そこで見つけたものとかを、調べてみたくなるし。
簡単に知ることなんてできないけれど、とりあえす意識の内側へ取り入れることは、意味があるように思える。
「出会い」とか「つながり」とかって、結構空々しく聞こえるけれど、会いたくなる人が世界のどこかにいるって、自分の世界が広がるということとイコールのような気がする。
実はバリでお世話になったファームの息子さんが、たまたまバンコクに滞在中らしく、到着したら落ち合うことにしていた。
18歳の彼は、今回初めて旅らしく、沖縄を目指して北上していくらしい。
その心細さを和らげるため、最高の宿「long luck」に招待しようなんてことも考えていた。
そこで友達増やして、この子もまたどっかで誰かと再会してほしい。
合流の時。少しの間しか離れてないのに、異国の地で再開すると、喜びもひとしおだった。
ファームで僕が下痢を漏らしたのを、知っているのか知らないのか定かではないが、なんとなく気恥ずかしい感じ。
「カオサンロードを見てみたい」との希望だったため、タクシーに乗り目的地まで飛ばしてもらう。
連日のテロの報道を得てか、久々のカオサンロードは、警察か軍の関係者に入り口を制限されており、少し物々しい雰囲気になっていた。
「なんか想像していた“ザ・自由”という雰囲気とは、若干異なりますね」
僕もなんとなくそんな感じがしていた。2か月前とは明らかに様子が違った。
どこにでもあるテロの脅威で、海外旅行者は減少の傾向にあるというけれど、別に観光地とか繁華街とか回らなくてもいいと思う。危険だし。
それじゃもったいないというのも分かるけれど、それよりもお酒を飲もうよ。
宿ではじめましての人同士が世界を共有するのを見ていると、沈没しながらはじめましてを繰り返す滞在もいいものなんじゃないかなーと思う。
と、自らを肯定し、沈没スイッチをONにする。
バンコク再会がスタートする。(7月18日~)